DVD鑑賞
秀吉の九州征伐の後に北条征伐の小田原攻めがあるのでこれにより北陸の伊達などが
忠誠を近い日本統一が完成します。
本題です。現在レンタルDVDをたくさん観ています。
でも映画というのは娯楽の領域をでないと思います。
実経験なしにはなにも語れないからね。
だってなにかをみただけですぐできる人なんてそうそういないでしょう。
そこのところは頭のよしあしで差がでてしまうから考えるだけ野暮。
しかし感動は与えてくれる。心のなかの乾きを多少なりとも癒してくれるものではあります。
そこで今回みた「幸せのちから」を紹介しようと思います。
これはクリス・ガードナーという人の自叙伝を映画化したもの。
本人の経歴は省略します。
なぜなら、知ったらつまらないからです。
彼の生き様はひきこもりであることが恥ずかしくなるくらい力のこもった人生を送っている、
この一点はべつにどんな共通する人間への憧れみたいなものにも共通するものです。
ただ彼は辛いことへ逃げない、トーマス・ジェファーソンを引用し、幸せは手に入れられないものなのかもしれないが、それを追い求める権利は誰にでもあることを述べる。
この過程が非常に重要であることは確かだ、心に刻むべきことの詰まった、また私に足りないものを教えてくれたすばらしい映画だった。
8/16-九州仕置き
さて大友の救援要請に伴い、秀吉が島津に停戦命令を出した。
この報に対し、島津では島津歳久が停戦を提示、一方で家久は宣戦布告を提示
家中でも2つの派に分かれていた。しかし義久の決意によって秀吉に宣戦布告をした。
ここにおいて秀吉は九州征伐を決定。
四国勢を先陣に自ら大軍である本隊を引き連れ九州へと向かうことになった。
四国勢が相対したのは家久率いる精鋭であった。
家久の戦術を前に四国勢はちょうそかべ家の当主が戦死するなどの大敗を喫した、
だが家久の天才的な戦術も将星綺羅星の豊臣軍本隊には通用しなかった。
島津家は秀吉の弟秀長引きいる大軍に押され、ところどころで退却を迫られた。
この情勢に義久は戦意を喪失、剃髪して秀吉に降伏をした。
秀吉はここに天下を統一したのである。
以上で九州三国志の大まかな解説は終わる。
8/14-九州三国志-島津・龍造寺・大友の攻防
この三勢力は基本的に中立勢力を取り込みながら勢力拡大を行っているため、
家臣団という結束は本州に比べると比較的薄い。
※本州とは日本で東京都を有する一番大きな島の部分である。他に北海道、四国、九州がある。
龍造寺はこの三勢力では最も弱小な勢力ではあったが、軍の強さはひけをとらなかった。
周りの豪族達を力によって平伏せ、キリスト教を布教していた宣教師達にとっては悪魔のような存在であったらしい。
しかしその勢力も島津家久の小数軍勢によって当主隆信が討ち取られ、龍造寺四天王も戦死、
別働隊として隆信とは別行動であった隆信の子とその補佐をしていた鍋島直茂は生き残るという
結果になった。
龍造寺が力を失った後最も勢力規模を誇っていたのが島津家である。
その島津家の九州統一は大友家を倒すことで可能となる。
この最終決戦は耳川の戦いと呼ばれる。
島津側の結束力が強いなか、大友では当主と家臣の宗教的な問題などで内部は乱れていた。
大友家内部では和睦派と強攻派の二勢力にわかれていたが
強攻派が耳川を渡り島津軍に突撃、後に大敗を喫した。
大友宗麟は勝ち目がないとみて秀吉に忠誠を誓い、援助を乞うた。
秀吉といえば、温情に篤い人である。すぐさま島津に停戦勧告を発した。
今日はここまで
8/13 九州三国志-竜造寺・島津人物伝
本がどんどん積まれていくのでなるべくまとめて書こうと思う。
まず龍造寺。
当主は龍造寺隆信、一代で龍造寺家を最盛に導いた別名「肥前の熊」。
その母慶誾(けいぎん)尼は秀吉から絶賛された女傑です。
隆信の父がなくなった際、鍋島清房に近づき再婚、
これにより鍋島家との絆が強化され、隆信に鍋島信生という義弟が誕生します。
信生、後の佐賀藩の礎となった鍋島直茂は、隆信にはない冷静さと知略によって
隆信を支えます。
龍造寺には武田の四名臣、徳川のように四天王が存在しました。
省略します。
最後に島津。
当主は島津義久。弟に義弘、歳久、家久がいます。
全員が有能という扱いを受けています。
義久は君主としての器量に優れ、義弘は戦闘に優れ、歳久は知略に優れ、家久は戦術に優れているといわれる。このことはいわゆる常勝軍団とも呼ばれる九州最強軍団の象徴でもある。
三勢力においても最も歴史に残る名将が所属している勢力、新納、上井、伊集院など。
今日はここまで
8/11-九州三国志-大友家人物伝
歴史群像-九州三国志について読んだことを自分なりにまとめたいと思います。
・前知識
九州は現在の福岡、佐賀、大分、長崎、熊本、宮崎、鹿児島県の総称です。
このいまでは田舎であった場所も織豊政権時代は鉄砲伝来など、南蛮文化がいち早く
吸収された地方です。
・九州三国志とは
中国では魏、蜀、呉が鼎立した三国時代があったのはかなり有名ですが、
これと同じく、当時の九州地方では複数の豪族が割拠し、本州と同様あるいはそれ以上ともいえる
激戦地でした。その血なまぐさい争いから三つの勢力が台頭してきます。
それが島津氏、龍造寺氏、大友氏です。
もともと勢力があったのは将軍家から九州の守護を任された大友氏ですが他二勢力によって
その力も削がれていきます。
・大友氏
まずは大友から。大友宗隣は熱心なキリスタン大名です。鉄砲伝来以前から外国に関心をもっていたのは
先見の明かそれともなにかを期待してでしょうか。いずれはキリスト教のための国をつくろうとしていました。
しかし、重臣の多くは仏教徒であり、なにかと反発がありました。その一方で国崩しと呼ばれた遠距離砲といった最新兵器をいち早く使用したのは大友氏の勢力であり、その威力は島津軍を撤退させるほどでした。
・大友氏の名将
一番有名なのは鬼道雪と呼ばれた立花道雪です。かの武田信玄も彼と雌雄を決してみたいと言ったほどです。主の大友宗麟は度々堕落の日を過ごすことがあり、家臣の諫言にも耳を貸しませんでしたが
道雪はわざわざ主と同じような振る舞いをしてここぞというタイミングで諫言をして宗麟を正しい方向へ
導いていきました。雷が落ちてきたとき自身の刀でそれを切り裂き足を負傷しながらも御輿にのり幾多の合戦で勝利したことを含めるとまさに文武両道といえます。合戦では「逃げるつもりなら、私を敵陣においていってからにせよ」と味方に絶大な圧力をかけながらも、功績あるものには褒め、過ちをしたものには厳しい武将だったようです。道雪は度々「大勢力を築けるだけの器をもつ」といわれながらもあえて家臣としての道を選んだのは武士の鑑といえる忠義の士でもありました。
次に有名なのは高橋紹運です。後に乱世の華と呼ばれた名将です。
後に上記の道雪の養子になった宗茂の生みの親でもあります。宗茂は年少時よりその才覚を認められ
紹運自身にとっても期待の嫡男でありましたが、道雪にはぎん千代という娘しかおらず、嫡男がいませんでした。そこで宗茂をみた道雪は紹運に再三養子にくれと懇願します。この申し出に困った紹運ですが
その熱意におれて宗茂は立花宗茂として道雪の養子となるのです。
それ以後かはわかりませんが、紹運は感状を道雪と連署で発行しています。それだけ二人の絆は強かったのでしょう。またこんな逸話があります。紹運の許嫁(斎藤鎮実の妹)が天然痘にかかってしまいひどい顔になってしまいました。鎮実は紹運に申し訳ないので辞退しようかと考えましたが、紹運は「私は彼女の顔をみて許嫁となったのではありません。温和な人柄に心惹かれたのです」と言い、その辞退を断り婚姻することになりました。戦国の世には整形技術はなかったでしょうから当然こういう問題も生じます。しかし、それを意ともしない
誠実さをかねそろえた紹運は名将と言われるにふさわしいと言えます。人間顔だけで決める人ばかりではないということです。そういう人を探すのは大変かもしれませんが。彼の戦働きは後述しますが道雪に劣らない戦功の持ち主です。
最後に紹介するのは立花宗茂と立花ぎん千代です。
宗茂は秀良から「九州の一物」と呼ばれた名将です。
後に大友氏から独立、秀吉から直参に任じられ領地を賜り一大名として確立します。
その後の朝鮮出兵では文禄の役(文禄元年・一五九二)で明軍を撃破、慶長の役(慶長二年・一五九七)では明・朝鮮軍に包囲された加藤清正を蔚山城から500人の兵力で救出しました。
関ヶ原では西軍(豊臣方)に属し、京極高次の城を攻撃します。光成の敗戦を聞いた後、柳川の城に帰城。
柳川合戦にて秀吉の軍師だった黒田如水と秀吉の子飼加藤清正と対決、後に開城し、降伏、家康により改易され浪人になります。その後、わずかな領地を与えられ大阪夏の陣に徳川方で参戦。
その功績が認められ、見事柳川の大名に復帰しました。
ぎん千代は宗茂の嫁です。道雪の娘だけあって女性でありながら豪の者であったそうです。
朝鮮出兵あたりから宗茂と不和になり別居します。いくつか説はあるようですが明確なものがないので理由は省きます。関ヶ原で夫が降伏したとわかると宮永御殿にこもり籠城の決意をします。
34歳という若さでなくなりました。