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前向きの本来

人との会話でなにか気がかりのことがあったりするとなにかこう立ち止まって悩み続けるということがある。
それが後ろ向きなのであれば前向きとはどういうことなのか。

実際前向きというのは考えをひきずらないことに等しい
考えを停滞させず次のことを考えることだといえる。

お茶をこぼした→拭かないといけない
これは本能的にそうせざるをえないがこれは一種の前向きの行動といえる。
歯が折れた→歯医者にいかなきゃ
これもそうだ

もっと高度にしてみる
プレゼンテーションであがってしまった→次のための資料を探さないと
ここで反省ばかりしていると自然後ろ向きになってしまう
だから次の資料に方向転換することで早い話が忘れてしまおうということだ。

ただやることがないひきこもりという身分はこれがなかなかできない。
以上より前向きになるためにはやることを自ら増やそうという意志が必要になる。

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することがない

ないわけではないが、虚無感が漂っている。
溜息ばかり。
するべきことをしていないのもひとつの理由かもしれない。
頭で考えていることをしようとしないのだから納得する以外にない。
やりきったというわけでもないのだから。

目標というと何か大きなことを目標と思いがちだけれど
よくよく考えてみると小さなものしかないことに気づく。

どこかの大きな会社の社長などという身分は松下氏に言わせれば
運命に占める割合がほとんどだという。

そんなものいくら頭がよく人脈豊富でも目標にできるわけないの
だから小さなものに限定されるわけだ。

では小さな目標とはどんなものになるのか。
資格の勉強とか言いそうな人がいるがそれもあるかもしれない。
だが、目標としては不相応らしい。

人間の生き方として原始時代から現代を突き抜けてきているものからして
学問はあくまで付随的なものでなくてもなんとかなるものだからだ。

灯台もと暗しというように小さな目標は実は基礎的なもののようだ。
文字通り「基礎」がなんなのかは人それぞれだが思えるものが基礎なのだろう。
本来ならこうあるべきだろうと思うものが基礎な人もいるだろう。
だがレベルが高過ぎては基礎とは言えない。
身近なできることが基礎だといえる。

案外この基礎がおろそかで先走りするからいつも失敗するんだろうなと内心考えさせられる。

習慣

プロバイダーが規制されていて2chに書き込めない。
ときには都合がいいが悪い時もある。

習慣はその名の通り身につけることと慣れることの50:50だ。
これが人間で重要・・というよりはそのものを印象付ける。
良し悪しでその人の美醜が決定される。
また健康にも作用する。頭脳にも・・なんでもありだ。

これは一概にいって個性そのものにもみえるが違うらしい。
個性が芽だとすればその土の部分をいうのだろうか。

土は栄養も蓄えられるしなにより支える土台になる。
これは人間でいうと精神面の安定やその他もろもろの活動力となる。
つまりこれがいいかげんだと芽が生えるどころか土が崩れてなんのためにあるのかすらわからない。

当然土があっても栄養不十分であれば芽は出にくいわけだが土自体が土台にもならないようであったのなら
前提がないわけである。

土は習慣と似ている。
こうしてみると努力だったり苦労を前面に出してやる気を出そうとするのは愚策といえる。
習慣がないとやる気が維持できないのだ。
人は必ずしも同じように根を伸ばすわけではない。
だから才能がない人はない人なりに土台を固める必要があるのだ。

土台というのは人の器によって大きさが変わる。
雑草のように耐えぬけるだけの力があれば土台を気にしなくてもいい。
だが精神的に弱かったりする場合は常に土台が大きく、栄養が豊富でないといけない。

土台もできていないのになにか大きなことをしようとすればたちまち挫折することだろう。
土台の大きさは言いかえれば余裕でもあるし自信でもある。
しかし、器に十分でない土台で自惚れていたのでは1の力も出せないで終わるかもしれない。

占いが自己満足な理由

占いというとネットには無数といえるほど多くその類のサイトがある。
利用したことのある人は当たってるよとかいうわけです。
最初はおもしろいのだけれど結局だから何ということになる。

あなたは頭脳明晰とか書いてあってもだから何。
頭がいいというのはいちがいに文字を書く仕事ではない。
古来よりいえることは見ておぼえる力があること。
すなわち即応力だ。
人がいったことを耳にしてすぐ整理できる力がいまの時代にもかなり重要な能力としていきている。
書いても聞けないのであれば人から教わるものも少なくなる。

サイトで文字をみてなにかしら得ている人がいてもそれは耳で聞いているわけではない。
気づけば眼で情報を得ていて耳はシャットアウトしているようなものだ。

動物で考えてみると納得がいく。
暴力など危険は眼と耳どちらが察知しやすいかというとやはい眼だ。
そこでは耳はどちらかという副次的機関といえなくもない。
ここで耳が敏感になるとどうなるか。
あらかじめ危険がわかる。よって危険からさらに遠ざかることができる。

訓練された犬さんに人間の声でなにか芸ができるものがいる。
またそれも耳によって「学習」したものだ。
犬は文字を書けないし、文字を書くから人間は文明を築けたともいえるが、
文明が成熟気味の今日では耳がおろそかになりやすいのかもしれない。

耳は環境適応力に際し重要なファクターかもしれない。
耳があまり鍛えられていない人は人がたくさん喋っていると気が散ったりおどおどしてしまうかもしれない。
情報処理がうまくいっていないのだ。
結果人間関係もうまくいかない。
こうくるとなかなかうまい具合になる。

占いがなぜあてはまるのかというと、大半が共通する部分をもっているからだ。
自負心になににしろ、大方みんな持っているということなのだろう。
個人で人と全く違う人などいないことになるのか。
こうなると占いは人間の共通点を探すきっかけにしかならない。
きっかけになってもしょうがない。

こんなことでうつつをぬかしているのなら耳を鍛えた方がよさそうだ。
耳はどうやって鍛えればいいと問題が生じる。

話すしかない。文字会話はNG。耳を使わない。
ボイスチャットなどもあるが情報が一極端なのであまり鍛えられない。
混雑した情報から得るという作業が大事であるといえる。

ひたすら聞いて相手のいうことを整理する習慣が大事ではないか。
これを怠っている人は話すのが苦手ではないか
そんな気がする。

世渡りの狭さ広さ

ひきこもりという立場だと世渡りというものが狭く感じられると思う。
だから、因縁のありそうな人との遭遇は非常に恐怖だし、なかなか人間の奥深さがわかってこない。
ある待合室の出来事、お水商売のような服装の女性が待たされているのか
ハイヒールを大きい音で叩いている。
傍でみている人はうるさいというより「あ、この女ちょっとやばいなぁ」と感じる。
その待たした人は謝罪とともに女性を呼ぶ。
新人のようだった。
それをみている人はそれが社会だと考えたとき仕事をはじめたらこういう客を相手にするときがあるのだろう、と思う。恐怖でしかない。
現にバイトで接客商売をやれば必然的に遭遇する。
人間まともな人ばかりではない。そう感じる。
しかし、そういう人ばかりを意識すると逆にいい人に出会ったとき自分の人間観を恥じてしまう。
なにが人間というものを定義するのだろう。
非常に難問である。それは場当たりでいくらか経験しなければなかなかつかめないのかもしれない。
しかし、社会と知り合いではまた付き合い方が変わってきそうなところがまた困る。
他人はものすごい冷たいが知り合いにはやさしい人もいる。
あんなに怖い人が愛妻家なんてこともある。
実に謎だ。表面だけを触っていたのでは気づくこともできない。
社会の波というのは一見場当たり的にみえるが案外底が深く酸素をいれなければすぐに沈んでしまうようなものようにもみえる。
そこでひきこもりは底に沈むのがすごい恐ろしいことだと思うのではないだろうか。
泳げない心理と同じだ。
泳げないで深海に潜る勇気は一般人にもないだろう。
理論では解決できない問題がいくつもあることを知らなくてはいけないのか。
ひきこもりは頭がよさそうな人が多いらしい。
だが理論で解決できないことにはまったく臆病でしかないのかもしれない。
足りないところは明確なのだが臆病なのだ。
つまりは臆病だ。

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